クーパーが全く翻訳される気配がないので、電子書籍+機械翻訳で読んでみることにした。まずは執筆時期が『アンドロイド』や『転位』と近く、またテーマが世代型宇宙船テーマだということで気になっていたため本書を選択した。
印象的な作品であり、総合的に見て『アンドロイド』には全く及ばないまでも――『転位』にもやや及ばないまでも――『遥かなる日没』程度には匹敵する秀作である。
クーパー特有のあの空気感――物悲しくもヒリついたセンス・オヴ・ワンダー――が世代型宇宙船という陰鬱な題材において存分に発揮されている。そして、自らの愚かさによりたった一つの「種」(十数人乗りの世代型宇宙船)を残して絶滅した人類が、宿命的な回帰の結果、新規まき直しを図るというというテーマは(考えようによっては)崇高である(後述)。
しかし残念なのはいくつかの技術上の重篤な欠点が作品の完成度を半減させていることだ。列挙すると、
- テンポが悪い。第一部では最初の約三割を費やして最終戦争までの経緯を書いているが、あまりに冗長である。星間航行の初期の世代を描く第二部はテンポ的に唯一妥当。そして第三部はあまりに駆け足過ぎる。まるで書き進めるにつれて熱意が減衰したかのようだ。
- 男女各五人から始まった集団が長期的に存続できるわけがない。なぜ何らかの正当化を行なわないのか。
- 終盤の展開が強引あるいは手抜きに感じる。いくら何でもワープ航法兼居住可能惑星発見装置(兼制御不能なタイムマシン兼制御不能な平行世界間移動装置)が一発で開発されるのはご都合主義が過ぎやしないか。
そして複数の意味で納得が行かないのが結末である。五万年前の地球に回帰したソラリアン号の人々は「原住民」との摩擦を予期しながらも「むしろ彼らと合流し、彼らを導き、人類が自滅という同じ間違いを犯さないようにしよう」という理屈で地球への再入植を断行するのだ。
これは一見崇高なように見えてその実は高慢の極みではないか。なぜこの次元の地球人が自分たちと同じ歴史を辿ると決めつけているのか。なぜ自分たちが彼らを導けると思っているのか(仮に現世代がそういう理想を持っていても、それが世代を超えて保持される保証があるのか?)。これを「傲慢により滅びた種族の末裔の無自覚な傲慢さ」の描写と見るべきか、あるいは「本当に崇高な人々が崇高な決断をした」描写と見るべきか?
いずれにしても、真に原始人たちのことを尊重するなら地球には着陸せず別の惑星を探すべきではないのか? 殊に、ご都合主義的超発明によってゼロコストでいくらでも宇宙を飛び回れるのであれば。なので、それを正当化するためには
- それ以外に選択肢はない(何度ワープを繰り返してみても大昔の地球に戻ってしまい、宇宙にはこれ以外に居住可能惑星が存在しない)ことが登場人物たちにより確認される。
- ソラリアン号が最初のワープで大昔の地球に戻ったことは「運命」だと登場人物たちが信ずる。
のいずれかが必要だと思う。作者がその一手間を惜しんだかのように見えるのは残念である。