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急に読みたくなって先週末は久しぶりに《ドリトル先生》シリーズを通しで読んでみた。やはり何度読んでも面白い。
そして今回は一つ新たな“気付き”があったのでそれについて述べたい。それは『ドリトル先生のサーカス』と『ドリトル先生の郵便局』がいずれもドリトル先生による組織改革をテーマとしていることだ。
しかしこの二作品は全くもって対照的でもある。
『郵便局』は底抜けに楽観的だ。ドリトル先生はファンタジックなアフリカの小国で国王から全権を委任され、何者にも慮ることなく辣腕を振るう。学識と発想力と実行力に富んだドリトル先生の合理的な施策はことごとく大成功する。先生が相対する問題はせいぜい無知や怠慢に過ぎず、構図はシンプルで、勝利に至る道筋は明快である。とにかく「やれば成功する」「頑張れば成功する」状態なのだ。
いっぽう『サーカス』は心が重くなる。先生が相対するのは陋習に凝り固まった現実的なイギリス社会だ。さすがのドリトル先生も生まれ育ったコミュニティでは様々なしがらみがあり全力を発揮できない。そして問題も複雑で、不合理、悪意、拝金主義、利己主義、愚劣さに満ちており、先生が自らの善なる直観に即時的に沿うだけでは解決するとは限らない(世間知に長けた参謀たちの力を借り、時間を掛けて慎重に事を進めなければならない)。ドリトル先生は劣悪な環境で搾取される動物たちをその場で助けられない自分の無力さに苦悩する……
《ドリトル先生》シリーズとはここまで悲観的で現実的な物語だったのか! これまで何十回も熟読しているのに全く見えていなかった。自分も少しは成長したということだろうか。
【追記】
読んだのは岩波少年文庫版のKindle版なのだが、岩波書店に強く抗議したいことがある。それはKindle版(例えば『サーカス』だと紙書籍版の2014年第十四刷をもとにしているらしいが)には、わけの分からない“著名人”による有害無益な後書きが付いていることである。
どういう基準で選んだのかは知らないが、現時点で三流・四流の著名人ばかり(大物は畑正憲くらいか)で全く興味が持てないし、十年・二十年もすれば彼らの著名性がさらに劣化するであろうことは火を見るよりも明らかだ。一流の、百年を経た、今後百年以上は読み続けられるであろう作品にこういうパッケージングを施すのはいかがなものか。これが一流出版社のやることなのか。
また、彼ら三流以下著名人の寄稿内容自体がまたいけない。的外れ、自分語り、つまらないのは基本。特に『サーカス』の後書きは最低だ。的外れでつまらない自分語りを延々続けた挙句、ようやくドリトル先生に触れたと思ったら本作を“安易”と切り捨てている。作品に対するリスペクトは全く感じられない。作品の本質が全く理解できていないし、どんな寄稿が求められているのか全く理解できていない。岩波書店は何を考えてこれを採用したのか。この自称動物調教師も編集者もチンパンジー以下だ。
猛省を促したい。