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『ピノッキオ』。若いころは定期的に読み返していたような記憶があるが、いつしかそのルーチンは途切れており、どえらく久しぶりに読んだ。確か当時は色々読み比べた結果岩波少年文庫版(杉浦明平訳)と福音館書店古典童話シリーズ版に帰着していた記憶がある。今回は後者を読んでみた。
いやあ、やはり名作は何度読んでも良いし、むしろ読めば読むほど良いものだ。やはり古典的名作と呼ばれる作品には、言葉ではうまく表現できないが、何か「本物」のスピリットがある。そして、昔より主人公ピノッキオに強く感情移入してしまっている自分に気づいた。自分も少しは成長したということか。
この版の翻訳は、記憶していたとおり良好だ。しかしあえて言わせていただければ少々ひらがなが多すぎるようにも感じる。低い対象年齢を考慮してのことだろうが、漢字を減らしさえすれば一概に可読性が上がるかと言えば、それは安易な考えだと思う。読めない漢字の発生可能性が減る効果と語や文節の区切りが分かりづらくなる効果が結局相殺するからだ。自分だったら(難しい言葉を控えるのは当然として)漢字を減らすことにはもう少し慎重になるのだが。
巻末解説やものの本――いや、然るべき本は読んでないので「もののサイト」か――によると、本作は単なる児童向けの読み物ではなく、様々な風刺やメタファーを含む多層的なものとして読めるらしい。なるほど。小難しいお文学に関してそういうメタファーだの何だの言われると関係者の三親等以内を皆殺しにした上で家を焼き払い、焼け跡でコミック・ソングを歌ってやりたくなるものだが、本書についてそう言われると許せるどころか興味を惹かれる。確かにそこかしこに象徴的、あるいは思わせぶりな個所がある。どうやらその真意を読み取るには近代イタリア史が必須要件らしいのでそのうち勉強してみよう。
メタファーと言えば一つ新たに気づいたことがある。前半・中盤でくどいほど繰り返される「学校・教師・本・勉強」への盲従強制だが、私はこれまで「古い古い児童向け小説だから教条主義は仕方がない」と思っていた。しかしこれは誤解だった。『ピノッキオ』は権威や形式への盲従をよしとしてはいない!
説明しよう。なぜ前半・中盤におけるピノッキオの改心が浅く形骸的ですぐに崩れるのか、そして物語の終盤における回心がどうして実ったのか。それは学校・教師・本・勉強への盲従が誤ったイデオロギーでしかない(他人を操ろうとして誤ったイデオロギーを押し付けてくる大人もいるということだ!)、もしくは大人の忠告の真意を前半・中盤のピノッキオがそう誤解して小手先で表面だけ従っていたのに対し、終盤のピノッキオはただの形式ではない本当の勉強(それは生活と一体である!)に自ら心身を駆使して打ち込んでいった結果、必然的に成果が上がったのだ。
どうしてこれほど簡単な構図が理解できていなかったのか、過去の自分が理解できない。
ところで第17章で空色の髪の仙女様が「嘘には二種類ある。鼻が伸びる嘘と、足が短くなる嘘だ」と言っているが、これも何かのメタファーなのだろうか。前者ばかりが有名になっている(作中で実際に生じている事象は前者だけである)が、後者はどういう場合に起きるのだろうか。そもそも両者はどういう由来なのだろうか。イタリア語の慣用句あるいは洒落か何かなのか、それともコルローディの創作なのだろうか。誰か教えてほしい。