グラント船長の子供たち(上・中・下)
大久保和郎訳
2000年
グーテンベルク21
2・3年に一度は無性に読みたくなる本。今回もその周期がやってきたので再読した。このグーテンベルク21版は、明記はないが訳者からすると集英社コンパクト・ブックス版もしくは旺文社文庫版のリプリントの模様(*1)。
何度読んでも楽しめる、ヴェルヌ屈指の名作である。よんどころない事情があって南緯37度縛りで世界を一周するという単純ながら卓越した着想を軸に、ヴェルヌ流の海洋・蛮地冒険小説が見事に展開されている。プロットは巧みだし、登場人物は(当然ヴェルヌ式の生硬な人物像ではあるものの、その範囲内では)個性があり生き生きとしている。
しかし(過去の作品に無粋を承知で)一つだけヴェルヌに問いたい。イングランド人に搾取されているスコットランド人が暴政を逃れて南太平洋に植民地を築くのは結構だが、その計画は必然的に原住民の土地と文化と自由と尊厳を奪うことになるのではないのか? イングランド人がスコットランドでやっているのと同じことをスコットランド人が南太平洋で繰り返すことになるのではないのか? それは構わないのか?
追記:もう一つ問いたい。グラント船長は聖人君子、エアトンは(二面性というか複雑性はあれども四捨五入すると)悪として扱われているが、それは正しいのか? 知的で献身的(たぶん)な部下の意見を聞き入れない独善的な男、挙句の果てに部下を無人境に置き去りにする男が聖人君子だとは私には思えない。少なくとも人を無人境に置き去りにするのは何かの法律に違反すると思うのだが、なぜその責が作中で全く問われないのかが分からない(あと、退職金は払ったのか?)。エアトンがその後オーストラリアで多くの犯罪を犯したことは確かだが、堅気の船員を犯罪者に成らしめた直接的な要因は明らかにグラント船長にあるし、エアトンはグラント船長との間においては何らの罪も犯していない。地位と階級と大義があれば船員ごときに何をしても許されるのか?
*1 ただしこのグーテンベルク21に関しては、イラストレーションに難がある。コンパクト・ブックス版の挿絵(いま調べたところでは画家は滝瀬弘という人のようだ)を再録せず敢えて原書の挿絵(エドゥアール・リウー)を採用していることには特に文句はない。どちらも甲乙付けがたい優れたアートである。良くないのは、本来170枚ほど(!)ある挿絵がせいぜい十分の一ほどしか収録されていないのである。コストダウンのためなのかもしれないが、ヴェルヌ作品は挿絵を含めて一つの芸術なので全部とは言わないまでももう少し収録して欲しかった。また、少なくともKindle版に関しては画質が極めて悪い(Android版だと本当に親指の爪ほどしかないし、拡大してもガビガビになるだけで意味がない)のも残念である。現代であれば各自でウィキメディア・コモンズなりで原画を見ながら読むという対症療法も可能ではあるが…