ジュール・ヴェルヌの名作、『海底二万里』。その主題である万能潜水艦「ノーチラス号」。これのハードウェア面については既に(おおむね)語り尽くされた。今回はこれまであまり着目されずにいたソフトウェア面について論じたい。すなわち、「ノーチラス号内で話されていた未知の言語」の正体が何だったのか考えてゆきたい。
関連するシーンをいくつか抜粋する。(以下すべてグーテンベルク21版『海底二万リーグ』(村上哲夫訳)より)
①ノーチラス号の甲板に辿り着いた3人を、乗務員が発見したシーン。
そして突然一枚の鉄板が動いて、そこから一人の男が姿を現したが、何かわけのわからぬ叫び声をあげると、すぐ引っ込んでしまった。(第七章 怪鯨の正体」)
②ネモ船長との対面シーン
たしかに首領らしい背の高いほうの男は、無言のまま、じろじろ私たちを眺めていたが、やがてもう一人の男を振りかえると、何かわからぬ言葉で話しかけた。朗らかな耳ざわりのいい、柔らかな発音で、母音にいろいろなアクセントがあるようであった。(第八章 動中の動)
③副船長の決まり文句
彼は双眼鏡を眼にあてて、水平線を見まわしていたが、ひとわたり見おわると、昇降口に近づいて、次のような言葉を叫んだ。それは毎朝きまって繰りかえされる言葉なので、私もいつのまにか覚えこんでしまったのだ。それは次のような言葉だった。…Nautron respoc lorni virch それはなんの意味か、私には少しもわからなかった。(第十四章 招待状)
パッと思い出せるのは作品前半からこの3か所くらいだろうか。具体的な材料は実に少ないが、三つの仮説が考えられる。
【仮説1】
第一の仮説は、エスペラントである。これはネモ船長とその一味が本来はポーランド人として設定されていたこととも符合する。しかしちょっと確認してみると、『海底二万里』は1870年刊行、エスペラントが公表されたのは1887年(原型を内々に発表したのも1878年)であり矛盾する。仮にザメンホフが1870年以前にエスペラントの構想を持っていたとしても、それをジュール・ヴェルヌが知り得たとも考えづらい。また主にロマンス語から語彙を採ったエスペラントをフランス人インテリが「全く未知の言語」と見なすとは考えづらい。
【仮説1’】
第一の仮説の亜種として、他の既存の人工言語はどうだろうか。調べてみたところ最大手のヴォラピュクも1879年公表のため否定される。(いま然るべき参考資料が手元に無いのでWikipediaを見たところ)ソルレソルという実用性の無さそうな人工言語は1817年に公表されているらしいので年代的に矛盾しないが、特徴が合致しない。とは言え人工言語発案は当時の流行だったであろうから、1870年の時点で何かしらの(今では忘れられた)人工言語が存在し、ヴェルヌがそれを知っていて採用した可能性は否定できない。
【仮説1’’】
そのまた亜種として、ヴェルヌ考案の新しい人工言語もあるかもしれない。人工言語というアイディアをヴェルヌが知っていたなら、(トールキンが「指輪物語」のために架空言語をいくつも創造したように)『海底二万里』のために一つの架空人工言語を創造したとしてもおかしくない。
【仮説2】
第二の仮説は、ポーランド語である。これは上記のとおり彼らが本来はポーランド人として設定されていたためである。しかし、仏・独・英・羅(そして恐らくギリシア語も)に堪能な西欧のインテリが既知のスラブ語であるポーランド語を「全く分からない未知の言語」と見なすだろうか? そうだとは考えづらい。
【仮説3】
第三の仮説はインドの言語である。『海底二万里』の時点でネモ船長と一味の正体をそこまで設定していたかは分からないが、『神秘の島』ではネモ船長はインド、バンデルカンド(ブンデールカンド)地方の王族だと明かされている。(いま然るべき参考資料が手元に無いのでWikipediaを見たところ)この地方の言語はヒンディー語の一種らしい。これなら西欧のインテリが全く分からなくてもおかしくない。
【結び】
結局「シャーロック・ホームズの出身大学はどこか」のごとき空論に過ぎないが、私としては仮説3か仮説1’’が有望だと見る。