ホームページ「プロジェクト・サイラス・スミス」http://projcyrussmith.moto-nari.com/ のブログ部分です。メインのコンテンツ(翻訳したSF)自体はホームページ側にあります。ブログ側にはSFのレビューなどを投稿しています。 ※SF翻訳活動は、実用度の高い機械翻訳の台頭により意義を失ったと考えるため、2021年以降はほぼ休止しています(2021/4/14投稿を参照)。 ※ブログ内のエントリ間のハイパーリンクはまれに切れている場合がありえます。お手数ですが検索機能をご活用ください。
急に読みたくなって先週末は久しぶりに《ドリトル先生》シリーズを通しで読んでみた。やはり何度読んでも面白い。
そして今回は一つ新たな“気付き”があったのでそれについて述べたい。それは『ドリトル先生のサーカス』と『ドリトル先生の郵便局』がいずれもドリトル先生による組織改革をテーマとしていることだ。
しかしこの二作品は全くもって対照的でもある。
『郵便局』は底抜けに楽観的だ。ドリトル先生はファンタジックなアフリカの小国で国王から全権を委任され、何者にも慮ることなく辣腕を振るう。学識と発想力と実行力に富んだドリトル先生の合理的な施策はことごとく大成功する。先生が相対する問題はせいぜい無知や怠慢に過ぎず、構図はシンプルで、勝利に至る道筋は明快である。とにかく「やれば成功する」「頑張れば成功する」状態なのだ。
いっぽう『サーカス』は心が重くなる。先生が相対するのは陋習に凝り固まった現実的なイギリス社会だ。さすがのドリトル先生も生まれ育ったコミュニティでは様々なしがらみがあり全力を発揮できない。そして問題も複雑で、不合理、悪意、拝金主義、利己主義、愚劣さに満ちており、先生が自らの善なる直観に即時的に沿うだけでは解決するとは限らない(世間知に長けた参謀たちの力を借り、時間を掛けて慎重に事を進めなければならない)。ドリトル先生は劣悪な環境で搾取される動物たちをその場で助けられない自分の無力さに苦悩する……
《ドリトル先生》シリーズとはここまで悲観的で現実的な物語だったのか! これまで何十回も熟読しているのに全く見えていなかった。自分も少しは成長したということだろうか。
【追記】
読んだのは岩波少年文庫版のKindle版なのだが、岩波書店に強く抗議したいことがある。それはKindle版(例えば『サーカス』だと紙書籍版の2014年第十四刷をもとにしているらしいが)には、わけの分からない“著名人”による有害無益な後書きが付いていることである。
どういう基準で選んだのかは知らないが、現時点で三流・四流の著名人ばかり(大物は畑正憲くらいか)で全く興味が持てないし、十年・二十年もすれば彼らの著名性がさらに劣化するであろうことは火を見るよりも明らかだ。一流の、百年を経た、今後百年以上は読み続けられるであろう作品にこういうパッケージングを施すのはいかがなものか。これが一流出版社のやることなのか。
また、彼ら三流以下著名人の寄稿内容自体がまたいけない。的外れ、自分語り、つまらないのは基本。特に『サーカス』の後書きは最低だ。的外れでつまらない自分語りを延々続けた挙句、ようやくドリトル先生に触れたと思ったら本作を“安易”と切り捨てている。作品に対するリスペクトは全く感じられない。作品の本質が全く理解できていないし、どんな寄稿が求められているのか全く理解できていない。岩波書店は何を考えてこれを採用したのか。この自称動物調教師も編集者もチンパンジー以下だ。
猛省を促したい。
最近自分の中でアースシー熱が高まり、とうとう読むものがなくなったので、長年避け続けてきたこの2冊に手を出すことにした。
懸念していたほど可読性が低くはなかったので普通に読みとおすことはできたが、やはり特に面白くはなかった。
何と言うか、小説の形で何かを主張したいなら、主張は匂わす程度に留めるのが得策ではないかと強く感じた。その方が読者も必死で主張を読み解こうとするので逆説的に伝達率は高まるし(北風と太陽効果)、批評家も勝手にありがたがって深読みしてくれる。第一そうしないと小説として面白くなり得ない。そんなことは百も承知しているはずのプロがそれを実現できていないのは、主張を直接的に語りたい欲求に屈したこと、信者ならそういう形でも読んでくれるだろうという慢心に陥ったことの現れに他ならない。どうして名を成した作家はこうして晩節を自ら汚してしまうのか。
この人が女性であるために損をしたり侮辱されたり傷付いたりしてきたのであろうことは察せたし、差別は――個人の心に沁みついているものも、社会のシステムとしてあるものも――良くない。しかしこの人のメンタリティだと結局どんな風に生まれても勝手に差別されたと感じて勝手に傷付いてしまうのではないかと、勝手に思った。
久しぶりに読みたくなり、数年ぶり、通算数十回目に読んだ。何回読んでも本当に面白い(「面白い」という形容詞一つしか出てこない私の語彙力を許して欲しい)。永久にファンタジー小説のマスターピースであり続けるだろう。
金太郎飴みたいな商業的愚作を量産している(あるいは量産すらできていない)売文家どもはまず本作を百回写経するところからやり直すべきであろう。そして、お経みたいな小難しくてわけの分からん(その実は内容が無い)愚作をひり出して悦に入っているエセ文学者どもも本作を百回写経するところからやり直すべきであろう。
それにしてもこの"Earthsea"シリーズをこれほど汚した国は、広い世界でも日本をおいて他に無いだろう。歳を取れば取るほどそう思えて来る。何だよ《ゲド戦記》って……。突っ込みどころしかない。各作品の邦題も二流半の域を出ず、作品の価値を損なっている。これが天下の岩波書店のやったこととは信じがたい。そして、とどめを刺すがごとく例の映画。私は日本人であることが恥ずかしくなる。
2021/02/15追記。《ゲド戦記》というカスみたいなシリーズ名は、全くの無からわざわざカスみたいな有を作り出したのではなく、作中に登場する叙事詩『ゲドの武勲(いさおし)』(英語原文では"the Deed of Ged")が由来なのかもしれないと気づいた。だからと言って許せるわけではないが…。