eBookJapanにて(*1)電子版が購入できることに気付いたため、長年の懸案事項であった『バビル2世(全12巻)』および『その名は101(全5巻)』を読み直すに至った。前者は図書館あたりで一応通読していたはずだが一応に過ぎないし、後者は断片的にしか読んでいなかったのである。
感想としてはとても面白かった。古典的(*2)名作と言われるだけのことはある。
現代の成人(しかも本格SF読者)からすれば当然稚拙・陳腐の極みであるし、1970年代の少年向けSF漫画に限ってももっと器用で先進的な作品はあるであろうが、それでもなお本作には何か言語化しがたい特殊な魅力(
cf.ベスターのE・E・スミス理論)がある。
また本作の節々から、作者が自らの能力と作品のコンセプトの範囲内で熱意を持って堅実・誠実に執筆したことが感じ取れるのも良い。
そしてコンセプトの妙こそが本作最大の美点かもしれない。どうしても超人テーマSFは超越者の苦悩とか、旧人類をどう扱うべきかとか、重くなりがちであるが本作ではそのあたりは極めてあっさりと流され、浩一少年のアクションを主軸に物語が進められる。おそらく凡百の創作者なら(特に今日の創作者なら)語りたい欲求についつい屈しているところであるが、横山光輝はあくまで少年向けの娯楽作品というコンセプトを貫いているのである。……本編のそのツケを清算するのが『その名は101』と言えるかもしれないが、それでもなお山野浩一は(他の登場人物も)テーマらしきことを直接的に語ることはしない。あくまで少年向けアクションSF漫画の体裁を崩さず、行動で考えを示し、読者に解釈を委ねるのである。
ところでハインラインの秀逸な中編『深淵』に、確かこんなやり取りがあった。「超人が常人と違うところはどこだと思う?」「……それは、よく考えるところだ」「そのとおり。超感覚、超能力、超肉体なんてものはおまけに過ぎない。我々は花を軽蔑はしないが実を重視する」と。
考えてみると、地の文などで明言はされていないが浩一少年が他の超能力者たち(ヨミを含む)より真に卓越しているのは能力ではなく精神の強さかもしれない。さもなければいくら最強の超感覚・超能力・超肉体を手に入れ、異星人の学習装置で教育を受け、バベルの塔と三つのしもべにバックアップされたからと言って「平凡な中学生」がヨミやCIAとたった一人で戦い抜けるわけがない。
さて、「二度と人々の前に姿を見せることはなかった」浩一少年(いや、物語の終了時点ではむしろ青年と言うべきだろうか?)はその後どうしたのだろう。「孤独で寂しい人生」を送ったというのは
A.どこかで隠棲した
と解釈すれば良いのだろうか、それともバビル1世が提示したように
B.「(自分の遺産を使い)この地球を征服する」
か
B'.「(自分の遺産を)地球人のために使う」
かのいずれかのアクションを陰ながら取ったと考えるべきだろうか? 興味は尽きない。
*1 なぜか横山光輝の漫画は一般的な電子書籍ストアではほとんど扱われていないが、なぜかeBookJapanでは豊富に扱われている。独占契約でも結んでいるのだろうか。
*2 読者の体感として、漫画は小説と比べると作品が「古典」になるまでのライフサイクルが数倍早い。考えてみると興味深い。