ジェイムスン教授シリーズ第2巻。
『水球惑星義勇軍出撃の巻』
悪くない。そして一つ気づいた。恒星間を航行できるほどの高度な科学技術レベルに達しているゾル人は、肉体が頑丈な金属製サイボーグであるという要素もあり、そうでない惑星人たちに比べれば多くの面で圧倒的優位に立つ。しかしそれでは話が面白くならないのでジェイムスン教授シリーズは本話のように「ついうっかり単独・軽装備で母船を離れて悪条件が重なり……」というパターンになりがちなのだ。この構造は後世のSF……例えば「宇宙大作戦」シリーズでも頻出するが、あのわざとらしさを感じさせないのはジョーンズの手腕であろう。
『教授なつかしの四千万年前に戻るの巻』
以前のエントリでも言及した作品であるが、実際に読むのは幾星霜ぶりである。以前に認識していたよりも遥かに興味深い作品だと再認識した。特に今回気づいた特筆すべき事項は、「ジョーンズの作品は全て同じ世界を舞台にしているのではないか」ということである。
それは過去に遡った教授たちが「流刑星フォボスから、囚人が集団脱走するのを目撃した」ところで気づいたのである。どういうことかと言うと以前翻訳した『
金星での難破』の続編「Escape from Phobos (1933)」がまさにそれをテーマとした作品だからである(翻訳はしていないがInternet Archiveでざっくりとは読んだことがあるので知っているのである)。
……そうか! その手のリファレンスでジョーンズを未来史の走りだと述べているのは、『教授なつかしの…』という中編1つを指して未来史小説だと言っているのではなく、これを中心とした複数の作品が1つの未来史を成しているという意味だったのか! 以前のエントリでは真意を理解せずに否定的なことを言ってしまった。反省する。
追記:ISFDBを見たらジョーンズの作品一覧に「Durna Rangue」というシリーズがあることに気づいた。これは『教授なつかしの…』の151から152ページで言及されている「デュルナ・ラング」と同一人物だろう。こうしてみると『教授なつかしの…』で語られている出来事は全てジョーンズの別の小説の内容なのだろう。すごく読みたくなってきた。
『放浪惑星骸骨の洞窟』
まあ悪くない。
追記:野田昌宏の「訳者あとがき」に物申したい。
藤子・F・不二雄のイラストレーションを絶賛するのは良いのだが、あまり過去のイラストを具体的に貶すのはいかがなものか。確かに(野田昌宏の他の著作でも述べられていたとおり)原典のイラストには稚拙だったり原文をきちんと読まずに描いているようなものが散見されるのは事実だ。それを面白くなく思う心境も分かる。しかしそういうところも含めてパルプの味と捉えるべきではないのか。
それが分からない大元帥では無かろうに、「モーリーなんざクソ食らえよ!(p.265)」のごとき暴言は古典へのリスペクトと品性が少々足りないのではないか。
文章全体から何か切羽詰まった空気を感じるので、何かのっぴきならぬ営業上の理由、あるいは一身上の理由でもあったのかもしれないが、残念に思う。